この日はホイアンからハノイへ移動します。10時に空港行きのバスが迎えに来るので、それまではホイアン観光を続けます。
朱印船貿易が行われていた16世紀末から17世紀初頭、ホイアンには日本人町があったとされていますが、現在ではその形跡はほとんど見られません。日本橋と呼ばれる来遠橋も、日本っぽい建築物かと言えばそうではありませんし。
そんな中、今日の予定はかつてホイアンに住んでいた日本人商人の墓を巡るというものです。
残っている日本人の墓は3ヶ所、いずれも旧市街から延びるハイバーチュン通り近く。少し郊外にあるので、ホテルの無料の自転車を借りて行くことにします。
自転車なんて久しぶりだなあ。よく考えたら、同じホイアンで5年前にクアダイビーチへ行って以来かも。
ハイバーチュン通りを北へ2.5~3km走ると、目印にしていたハイ トゥオン ラン オン(Hải Thượng Lãn Ông )通りが出てきました。
この通りを過ぎて100メートルほどの右手にこんな石碑が出てきます。Mộ Ông Banjiro=蕃二郎の墓です。
ハイバーチュン通りから墓へのアプローチは、麺屋台のテーブルに占領されていました。
ここですね。
ベトナム語、日本語、英語、フランス語で書かれた石碑が立っていました。
「ここは、1665年、この地に永眠した日本人商人 蕃二郎の墓地です」及び参拝の注意事項が書かれています。
きれいに管理されていますね。
昭和3年 西暦1928年 文学博士 黒板勝美教授の提唱に基き、印度支那在留日本人一同 工事監督を順化府(=フエ)在住中山氏に委嘱し此墓所を修築す。
蕃二郎の墓から更にハイバーチュン通りを北へ進むと田園風景が広がります。サイクリング気分で気持ちが良いです。
蕃二郎の墓から5~600メートル先の右手に、今度はMộ Ông Tani Yajirobei=谷弥次郎兵衛の墓の案内が。
ここから右手の水路沿いの道へ。
200メートルほどでまた石碑が。
ベトナム人のおじさんが居て、あそこだと墓を指さしています。あぜ道のような通路に入って行きます。
稲刈り間近の黄金色に色づいた水田が美しい。
谷弥次郎兵衛の墓は雑草に覆われてしまっています。
墓標に依りますと・・・
「1647年、日本人の貿易商人、谷弥次郎兵衛(たにやじろへえ)ここに眠る。
言い伝えによれば、彼は江戸幕府の外国貿易禁止令に従って日本に帰国する事になったが、彼はホイアンの恋人に会いたくて ホイアンに戻ろうとして倒れた。
この彼の墓は母国の方向、北東10度を向いている。
この遺跡は17世紀にホイアンが商業港として繁栄していた当時、日本の貿易商人と市民との関係が大変友好的であった事の証である」
恋人と別れるのが嫌で日本に帰りたくないか・・・
400年前の貿易商人も現在の駐在員も変わらないなあ。
おじさんが付いてきていまして、線香に火を点けてくれました。管理人なのかな?どうせチップ目当てなんだろうなあ。
日本人がお参りした際に持ってきたと思われる花束の枯れたのが残っていました。
ここにも 黒板勝美教授の件があります。
線香代と思い、おじさんに2万ドン差し出したら、黒板勝美教授の件が書かれた石碑のところへお供えしろとのジェスチャー。
そこは墓石じゃないんだけど・・・おじさんは日本語が読めないから仕方ないかと思い、指示に従います。
それよりも親切心を素直に受け取れず、チップ目当てなんて疑っておじさんごめんよ。
アヒルの放し飼い、のどかですね。
うわっ、ヘビの死骸だ。
チップも受け取らない、凛としたおじさんの姿。
お礼を言って、次に行こうと思ったら・・・
おじさんがチップくれと手を出してきます。やっぱりそう来たか!
2万ドン渡したけど、さっきのお供えした2万ドンも後で取りに行くんだろう。
管理人ではなく、たまに来る日本人目当ての小遣い稼ぎをしているだけ?金額的にはしれているけど、後味の悪さを残したまま最後の墓へハイバーチュン通りを戻って行きます。
最初の蕃二郎の墓を過ぎた先のハイ トゥオン ラン オン(Hải Thượng Lãn Ông )通りを右折して西の方へ。
右手の2つめの通りを入り、突き当りを左に曲がってすぐにありますが、見つけるのに苦労しました。
グーグルマップでは「Jack’s Cat Cafe」がある通りです。航空写真で見ると、レンガ色の敷地に墓があるのが分かり易いと思います。
私は犬に追いかけられたりしながら、前を3回くらい通って、少し入ったところに説明の石碑があるのに気付きました。
「ここは、1629年、この地に永眠した日本人商人、箕足君の墓地です」以下、参拝の注意書き。
こちらも蕃二郎の墓と同様、きれいに管理されています。
3ヶ所ともそうですが、中国風の亀甲墓です。馬蹄形をしていますが、女性(母)の子宮を意味します。
入口の石碑には「箕足君」と書いてありましたが、この墓石を見る限り、「具足君」と読めます。
この具足君の墓がきっかけで、在大阪ベトナム総領事館は大阪市から堺市に移転したそうです。具足君の末裔と思われる方が、現在も堺で商売をされているとか。商人の町・堺からも朱印船貿易の船が出ていましたし、具足という珍しい姓でもあるので、信憑性が高いですね。
訪れた墓に眠っている3人とも1600年代、350~400年も前の人なんですよ。今なら飛行機で6時間ほどで来られますけど、当時は船でどれくらい掛かったんだろう。
私も海外駐在した経験がありますが、400年前は今とは比べようもない位、大変だったんだろうなと思います。
血縁関係は全くありませんが、今回3人の日本人墓地を回って、先祖の墓参りを済ませたような清々しい気分になりました。